カンボジアクロマーマガジン34号
写すシリーズ
真臘風土記を写す
樋口 英夫 (ひぐち ひでお)
アンコール帝国最強の王として知られるジャヤバルマン7世。この王の治世から80年後の13世紀末、王宮に中国の使節が訪れてきた。「我々の皇帝に服従したらどうだ」と、メコン河を船で遡り、脅しにきたのである。このとき中国では、漢民族王朝が征服されて、モンゴル民族王朝が支配していた。国号が「宋」から「元」になった時代だ。使節はアンコールに1年間滞在した。
この一行に浙江省温州の民間人「周達観」がいた。温州は南シナ海沿岸の国際貿易港だったから、周達観は東南アジアの習俗や特産品の事情に通じていた。彼はその知識をもとにアンコールの国情や風土を調査して、その成果を『真臘風土記』という本にした。使節の1年間滞在は彼の調査に充てたのかもしれない。
『真臘風土記』は日本語訳(東洋文庫)でも読むことができる。目次には城郭、住民、服飾、言語、暦と季節、裁判、産物、商売、魚類、醸造、道具、船、軍隊など40項目の見出しが立てられていて、アンコールを第三者の目で観察した歴史資料として貴重なものである。
ところがそうした価値とは別にこの本が興味深いのは、中国人に触れた記述が随所にあることだ。それは周達観が異国で出会った同胞に強い好奇心をもったこと、しかも彼らを見る目が好意的であったことが理由のようだ。彼はアンコールに着いたとき、中国の福建あたりから来た滞在者が大勢いて面食らった。彼らは商人や船頭、水夫といった仕事がらみの滞在者とはべつの、ふらりとこの土地にやってきて住みついてしまったような想定外の中国人だった。<なんで連中はこんなところに住んでいられるんだ?>彼はその疑問を次のように探って納得した。【流寓(他郷にさすらい住む)】という項目に、「この国は飢えることもない、女も得やすい、住まいは簡単に調達できる、道具もすぐ手にはいる、そのうえ商売もやりやすい。こんなに好都合だから住みついてしまう中国人がいる」と書いている。そして中国人がこの土地でうまく商売するにはカンボジア女性を娶ることが不可欠だと【商売】で説明し、さらに彼らの日常の愉しみといえばカンボジア女性の水浴を眺めることだと【水浴】の項を設けてわざわざ書き記してもいる。
またアンコールの建築物を解説した【城郭】では、彼ら(在住中国人)のあいだで語られている「都市伝説」まで載せている。以下はその箇所の原文。
――石塔山存、南門外半里余、俗伝魯般一夜造成。魯般墓在、南門外一里――
(アンコールトムの)南門外半里の石塔山とは、位置的に「プノンバケン」のことだ。プノンバケンは中国の建築神「魯般」が一夜で作ったと噂されていて、南門から1里先の、つまりアンコールワットが魯般の墓なのだという。「魯般」とは紀元前500年頃に中国で活躍した幻の名匠で、以来中国では工匠たちの守護神として祀られているのである。周達観が生まれた時代に福建地方で「魯般尺」という定規が考案されている。これは民家の門の寸法から吉凶を占うための定規で、魯般尺という名はもちろん魯般にあやかったものだ。とうぜん魯般という名は福建地方を中心にして広く知られていたわけだから、周達観は読者受けを狙って、わざわざ魯般にまつわる伝説を【城郭】の項に加えたのだろう。ちなみにこの魯般尺 、日本の大工さんが使う差し金(L字型の金属の定規)の裏面にもついていて、財・病・離・義・管・劫・害・吉と8文字刻印されている。
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