カンボジアクロマーマガジン32号
写すシリーズ
シヴァの神殿バコンを写す
樋口 英夫 (ひぐち ひでお)
バコンは端正な姿のピラミッドだ。大きな石材を階段状に5層に積み上げたその姿はインド神話の聖山を造形し、頂上に堂々とした塔を置いている。この塔はヒンドゥー教のシヴァ神が棲んだとされる神殿だ。塔の壁面にはシヴァ神に奉仕した女たちの姿も浮き彫りになっている。
当時のカンボジア王は大勢のバラモン僧を召し抱えていたが、そのなかでも特殊な真言(マントラ)を世襲するバラモンの秘儀により、シヴァ神はこの塔に降臨したのである。塔の中にはシヴァ神を象徴する聖なる石柱(リンガ)が安置されていた。それは神の降臨を納得させる神秘的な視覚装置でもあった。
シヴァ神の降臨は秘儀を主催した王が神から選別されたことを意味する。あまたいる王の中でも別格の王だと神が降臨して示したということだ。神に護られているこの王ならば「従うに値する」とだれもが認めざるを得なかった。王は畏れられ、強い霊威(カリスマ)を発して君臨した。バコン遺跡を物語るとすればきっとこんな感じになるだろう。たしかに王の治世にはクーデターも起こらず、侵略されることもなく、無事一生を終えられたようだ。しかし王の死後、カンボジアの首都はこの地から20キロメートル離れた「プノンバケン」に遷都され、やがてバコンは見捨てられて廃墟と化した。
20世紀初頭になると、カンボジアを植民地支配するフランスはバコンの修復作業を開始した。ところが修復が終わってみると、塔の中にあるはずの聖なる石柱が消えていたのである。廃墟のときに消えたのか、修復作業中に持ち去られてしまったのか…。塔の中は抜け殻のようになってしまったが、いつのころからか仏教徒の村人が、そこに小さな仏像を納めたのである。この誌面の掲載写真はバコンの塔に向かって祈る村人を写したものではあるが、彼らが手を合わせている対象はシヴァ神の神殿ではなく、その中に置かれた仏像なのである。
じつはこの写真を撮りながら、これがアンコール遺跡の本質だと感じていた。村人たちはなぜこんな不自由な場所から拝む必要があるのか―――。お寺にお参りするなら本尊としっかり正対して手を合わせるのが普通だ。しかし彼らには仏像が見えない位置から無理やり手を合わせるしかすべはない。なぜならこの塔には参拝者が祈る場所(外陣)が設けられていないのである。
外陣の欠落は日本の奈良時代の寺院を思えば納得できる。当時の日本の寺院は、天皇を護ること(鎮護国家)を目的に建てられた官寺であったから、大衆などまったく視野に入っていない。仏堂は本尊(内陣)のまわりに祈祷する僧の空間さえあればよかったのである。バコンの寺院建築思想も奈良時代とよく似ている。王を護るために建てたものなのだから、あえていま村人がお参りしようとすれば不自由な場所から祈るしかないわけだ。大衆を考慮しないこの寺院建築思想はアンコール遺跡すべてにあてはまるだろう。
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