カンボジアクロマーマガジン29号
冒険シリーズ
バイクをめぐる冒険:第5回
下川裕治(しもかわ・ゆうじ)
あれは5年ほど前だっただろうか。プノンペンの日本橋近くでバイクタクシーに乗ろうとした。薄暗い市場の片隅に、ひとりの青年が立っていた。傍らにバイクがある。そこはバイクタクシーのスタンドだから、彼はドライバーだった。しかし、客を乗せるぞ、というオーラがない。「客がきたらどうしよう」という不安が漂っている。
しかし僕は空港まで行かなくてはならなかった。
「いくら?」
英語で訊くと、青年はおどおどした表情で指を1本たてた。
「1ドル?」
いくらなんでも安すぎる。当時、空港までは最低でも7ドルはした。しかし客が値段を釣りあげるのも妙な話だった。僕はうなずいてバイクに乗った。
バイクはプノンペンの街をのろのろと空港に向かって進んだ。10分ほど走った頃だろうか。青年はさかんに首を傾げはじめた。いくら走っても、空港が視界に入ってこないのだ。彼には悪いが、僕は空港までの道を知っていた。その道のりの3分の1も走っていない。
しかし青年は、1ドルといってしまった以上、途中で停まるわけにもいかなかった。
しかししだいに、こちらのほうが心苦しくなってくる。空港に着いて、はい、と1ドルを渡せばいいのだろうか。
青年は自分の勘違いに気づいていた。これは1ドルの距離ではない。しかしなんといえばいいだろう。英語は話したことがない。この日本人は、カンボジア語はきっとわからないだろう。
30分ぐらい走っただろうか。バイクはやっと空港に着いた。僕はバイクから降りる。青年は黙っていた。英語を話す人を呼びにいくこともしない。ボールペンで掌に「10」と書くこともしない。
僕は7ドルを渡した。
青年はとろけるような笑みをつくった。
タクシーやトゥクトゥクの運転手ではこうはいかない。彼らは皆、慣れている。運賃を釣りあげることだけを考えている。
このバイク青年にしても、しばらくすれば、運賃を吹っかけてくるドライバーに育っていくだろう。
バイクタクシーのドライバーになるのは簡単だ。借り物のバイクが1台あれば、仕事をはじめることができる。そんな青年が毎日のように生まれている。そして外国人客に出会ってしまう。
カンボジアでは、たまにそんなバイクタクシーに乗る。田舎にいけばその確率は高くなる。そんなバイクタクシーに乗ると、ちょっと幸せな気分になる。運賃が安くなるという話ではない。なにか気持ちが通じあえるような気分に包まれるのだ。
熱風を体で受けながら、ドライバーの生活や家族を考えてみる。Tシャツに汗がにじんだドライバーの背中を眺める。バイクタクシーに乗る楽しみでもある。
(この項終わり)
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