カンボジアクロマーマガジン35号
美しき花のように。天女アプサラの物語
宮廷から一般庶民へ
内戦の苦難を乗り越え、見事復活を果たしたカンボジア古典舞踊。かつては神や王のための奉納舞踊であり、王室関係者や一部上層の人しか従事できなかったという宮廷舞踊だが、今は一般化され誰でも踊ることができるようになった。
アンコールワット観光の拠点であるシェムリアップでは、古典舞踊を見ることができるホテルやレストラン等が多くあり、その数は増え続けている。華やかなダンサーを目指し、日々トレーニングに励む若者たちに出会った。
夢は「ホワイトアプサラ」
シェムリアップ市街から北方面へ約5分。イタリア系NGOが支援する「タライトノー・アソシエーション」では舞踊と楽器を中心に、伝統芸能を地元の若者たちに教えている。生徒は現在64名、いずれも10~20歳の若者だ。
カンボジア舞踊の特徴とも言える、手を弓のように反らせる動き。入学してまず行うのが、この基本中の基本とも言える動きの練習だ。両手を合わせて指をグッグと押し合い、指の関節を柔らかくする。「はじめは手が痛くて大変でした」と振り返るソン・サヴェートさん(16歳)は、舞踊歴5年の高校1年生。習い始めたきっかけは「カンボジアの伝統文化にも触れられるし、小さな頃から踊りが好きだったの」。練習は週4回、シェムリアップ郊外の村から30分かけて通っている。
「つらいと思ったことは一度もありません」というウーイッチ・ソムオーンさん(17歳)は、サヴェートさんと同じ村出身。兄は同じ学校で伝統楽器を学んでいる。「一番好きな演目は、やっぱりアプサラダンス。特に中央で踊る『ホワイトアプサラ』はすべての踊り子の憧れ。私もいつか踊れたらいいな」
学校では多くの練習生を抱えるため、ベテランの踊り子が先生役として練習生の指導にあたっている。すでに「引退した」というロン・ソコン先生はまだ23歳。「踊り子に年齢制限はありませんが、今は引率に専念しています」8歳の時、友達の影響で踊りを始めて数々の公演にも出演したソコンさん。「今は生徒が上達するのを見るのが一番嬉しいです」
厳しい基礎訓練の積み重ね
翻って昔はどうだったのだろうか。1950~60年代にプノンペンの王宮で古典舞踊を学び、内戦前のカンボジア舞踊を知る数少ない元踊り子のクム・ボランさん(64歳)はこう語る。
「練習は厳しかったですよ。朝8時から始まって終わるのは夕方6時。家に帰ってからも手の動きや表情の練習を続けて、母に呆れられました」今は習い始めて数年で舞台に上がれるが、当時はそうでなかったという。「古典舞踊には4,500の型がありますが、これを身に着ける基礎練習だけで10年。それからようやく演目の練習に入らせてもらえます。私が踊りを始めたのは8歳の時ですが、初めて舞台に上がったのは20歳の時でした」
ボランさんは、シハヌークの娘で花形の踊り子であったボパデヴィ王女らとともに、王立舞踊団の一員として数々の王宮行事や海外公演にも参加した。「一番の思い出は、アプサラダンスを踊った後、シハヌーク殿下(前国王)に花束を戴いたことですね。あの時はあまりに驚いて、頭の中が真っ白になりました」
内戦後はシェムリアップに移り住み、ワットボー寺院で舞踊教室を開き、最近まで多くの生徒に踊りを教えていた。現在の伝統舞踊については苦言も呈す。「今はすべてが商業化され、古典舞踊本来の姿が忘れられているように感じます。舞踊はとても神聖なもので、王すら鑑賞中は水も飲まなかったのです」
アプサラダンスは数ある古典舞踊の中でも「特別」である所以について、ボランさんはこう語る。「シハヌーク殿下は外遊の際(文化交流のため)サッカーチームを連れて行っていましたが、あるとき舞踊団を引き連れアプサラダンスを披露したのです。それが大変評判よかったのでしょう。それ以来、シハヌークは外遊の時に必ず舞踊団を同伴するようになりました。それでカンボジア=アプサラダンスという印象をつけ、国を代表する演目になったのではないでしょうか」