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カンボジアクロマーマガジン43号

私の1975~1979-名も無き人々の「ポル・ポト時代」回想録-

[取材・文] 矢羽野 晶子 [制作] 田中 友貴 (クロマーマガジン編集部)

 1975年4月17日、「ポル・ポト時代」が始まったこの日。過去5年に渡るロン・ノル率いる政府軍と、クメール・ルージュ含む連合軍による内戦は、後者の勝利に終わった。「ようやく平和が訪れる」と喜んだのも束の間、プノンペンの人々は地方への移住を言い渡される。そこで待っていたものは、強制労働、飢餓と殺戮、自由を完全に奪われた想像を絶する世界だった。
 当時を生き抜いた人々は、何を見て、何を体験したのだろうか。
 暗黒の時代を生き延びた、名も無き市民5人の回想録。

目覚めたら、辺り一面が骸骨だった

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名前:マム・ウット
年齢:86歳(1929年生)
出身:スヴァイリエン州

 私が若い頃、カンボジアはまだフランス領でした。20歳で仏軍に入隊して、将校のドライバーとして全土を周りました。54年のラオス独立戦争の時には、仏軍兵として戦地まで赴きました。フランス撤退後はプノンペンの「ホテル・ル・ロワイヤル」で働きました。当時の宿泊客は報道関係やカメラマンが多かったですね。

1975年4月17日:46歳
 この日、私はプノンペンにいました。妻と2人の子供と暮らしていましたが、突然兵士がやってきて家を出るように言われました。私たちはしばらく自宅にいましたが、身の危険を感じたので、5日後にようやくそこを出ました。行き先は告げられず、ただ人の流れに沿って歩くよう言われました。私の息子は足が不自由だったので、自転車のタイヤを使って簡易荷車を作り、そこに息子と米50kgを載せて家族4人で移動しました。荷物を牛車や天秤棒で運ぶ人もいました。遠ざかるプノンペン

 しばらく歩いた後、カンダール州のプレイ・ター・ドゥオンという寺に辿り着きました。ここの村長は「簡単に人を殺す」と恐れられていました。彼はひとりひとりの荷物をチェックし、身分証明書や結婚証明書など、書類という書類をすべて没収しました。私は元仏軍兵なので、「ばれたら殺される」と冷や冷やしましたが、書類の中身は見なかったようで、大丈夫でした。
 ここではお盆までの数ヶ月間を過ごしました。お盆初日の朝、村長は皆にバナナを振る舞い「皆さん、もう(プノンペンに)帰れますよ」と言いました。皆とても喜びました。それから私たちはトラックの荷台に乗せられ、プノンペンに向かって走り出しましたが、途中で違う方向に曲がってしまいました。それから暫くしてまた市内に向かったのですが、ようやく市街地というところで、トラックは郊外の方に曲がりました。そこから見えたプノンペンの街には、人っ子ひとりいませんでした。その時、私は帰れないということを悟りました。

流転の日々
 その夜はコンポンチュナンに泊まりました。そこは前政府軍の基地だったようで、朝目覚めたら辺り一体が骸骨でした。翌朝トラックでポーサットへ。5日間ポーサットで過ごした後は、電車でシソポンに行きました。それからまたトラックが来て、バンテアイミンチェイのプノンスロックという村に連れて行かれました。その時期はまだ雨季で、泥々の中を歩かされ、さらに奥地のポンレイ村というところまで行きました。結局この村で、3年間を過ごしました。

ポル・ポト時代の終焉
 ここでは4つのグループに分けられて、私はグループリーダーを任されました。村長はとても良い人で、私のことも気に入ってくれました。私の仕事は獲れた魚や配給用の塩、米などを仕分けることでした。家族も同じ家でないにしろ、近くに住むことができました。
 77年頃、村長が代わりました。タケオ州出身の新しい村長はとても厳しく、タ・モク(※)に近い存在だったようですが、後に粛清されました。理由はわかりません。
 ポル・ポト時代の終焉は、川で作業中に息子から「ベトナム軍が入ってくる」という情報を聞いて知りました。それからポト派の兵士や役人は逃げ、村には一般人だけが残りました。私たち一家はプノンペンへ帰ろうと村を出て歩き始めました。

※ポル・ポト政権幹部の一人。 タイ国境の街アンロンベンに拠点を置き、政権崩壊後もカンボジア北西部を支配した。

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