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カンボジアクロマーマガジン37号

The Golden Age Of Khmer Rock 永遠の60-70sクメールロック

[取材・文] 小林 真之輔  [制作] 岡 克哉

 3人のクメールロック・レジェンドたち

黄金時代をつくったビッグ3

クメールロックを語るには外せない、3人のロックレジェンドたち。3人ともクメールルージュ時代に処刑されてしまったが、彼らの遺した歌は今も愛され続けている。

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ザ・キング・オブ・クメールロック

自ら作詞作曲まで手がけ、クメール歌謡からロック・ラテン・ジャズまで膨大な曲を歌った伝説的なミュージシャン。普段は寡黙でストイック。甘くロマンティックな声を守るため、酒・タバコ、辛い食べ物まで制限していたという。外国の文化に大きな関心を持ち、五ヶ国語が堪能。イギリス・アメリカをはじめ諸外国の音楽とカンボジア音楽を絶妙にブレンドし、カンボジアポピュラー音楽の礎を作った。

 

代表曲

♪バッタンバンの花 「Champa Battambang」

カンボジアで始めてテレビ中継された楽曲。他にもカンボジア各地について情感たっぷりの歌を多く残している。

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悲しみのゴールデンヴォイス

バッタンバンの貧しい家の生まれ。父親が伝統音楽の先生で、3歳の時から結婚式や葬式で歌っていた。男運がつくづく悪く、襲われる・重婚相手になる・誘拐されるなど何度も悲しみに翻弄されながら、「クメールロックの女王」へと上り詰めた。ガーリーなポップスからサイケ・サーフロックまで多彩なレパートリー。エレクトリックで伸びやかな歌声は、シハヌーク国王に「黄金の歌声」と称された。

 

代表曲

♪結婚はいつ? 「Reap ka pale na?」

「約束したのにもう1年だよ?」と可愛く歌ったポップチューン。華やかな声とワウの効いたギターが絶妙に絡み合う。

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ロックンロールの伝道師

バッタンバン出身で、ロ・セレイソティアと同じ高校を卒業。プノンペンでシン・シサモットのデュエットパートナーとして有名になり、その後ソロでも活躍。シン・シサモットはその後も作曲・レコーディングアーティストとしてパン・ロンを支え続けた。王道ロックンロールを中心に、楽しくソウルフル、ときにクールなナンバーを量産した。

 

代表曲

♪言い逃れできないよ 「Knhom Min Sok Chet Te」

ギターとオルガンがリズムをリードする、パン・ロンらしい軽快なガレージロック。ロック度100%のソロも圧巻。

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67~75年までプノンペンで活躍したロックバンド。アルバム「The Drakkar 74」はカンボジアで歴代最も売れたレコードとも言われている。入れ替わり含め全7人のメンバーのうち、ヴォーカル・ギター・作詞作曲担当のトーチ・シエン・タナ氏(写真一番右)を含む3人がクメールルージュ時代を生還した。

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ミュージシャンだけにはなるな

 10歳のときにプノンペンの映画館でエルビス・プレスリーのライブ映像を観たのがロックとの出会いでした。ビートルズ、ローリングストーンズにビージーズ…。2曲入りで160リエルのビニール盤を夢中になって買い漁るようになりましたね。金1gが300リエルほどだったのでかなり高価でした。土曜の夜は屋外演奏会があって、クメールロックバンドを会場の外から聴いていました。63年ごろからバンドブームで、親に「もう一生なにもねだらないから!」といって、10,000リエルのヤマハのギターを買ってもらいました。条件として「(社会的に立場の低い)ミュージシャンだけには絶対にならないこと」と私に約束させましたが、結局やぶってしまいましたね。

 

プノンペン中が、ダラッカーの話に

 ギターを買ってからは友達同士でバンドを結成し、現在のアメリカ大使館の場所で初ライブをすることになりました。ストーンズのカバー3曲だけの拙い演奏でしたがお客さんは、「ウォーー!!!!」とすごい熱狂ぶりで、翌日プノンペン中が、ダラッカーの話で持ちきりになっていました。私の青春でしたね。

 ロン・ノル政権になったタイミングでバンドは一時解散して、私はラジオ局でシハヌーク前国王に関する曲や政治的な曲を放送しないようにリストアップするという仕事をしていました。一度間違えて国王の曲をオンエアしまい、ラジオ局が戦車に囲まれて2~3ヶ月事情聴取されたことがありましたね。バンドはメンバーを入れ替え再結成して、サンタナやディープ・パープルのカバーをやりつつ自作曲を演奏していました。74年には念願のレコード「The Drakkar 74」もリリースしました。その頃はロ・セレイソティアやパン・ロンへの楽曲提供もしていましたね。

 

なんとか生き抜いた内戦時代

 クメールルージュの時代になり、私はバッタンバンで強制労働をさせられました。ミュージシャンは見つかり次第殺される時代で、一度「お前はダラッカーのヴォーカルのやつだ!」と音楽好きな兵士に気づかれましたが、サンタナの曲を歌ってあげたら見逃してくれました。夜ごとに往復14キロ離れた湖まで行って魚をとり飢えをしのいでいましたが、友人に密告され、見せしめに大勢の前で殺されそうになったこともありました。

 

クメールロックで昔の誇りを

 去年、アメリカ人監督による60-70sクメールロックのドキュメンタリー映画「Don’t Think I’ve Forgotten」が公開され、私も当時を知るひとりとして出演しています。カンボジアの若者たちは昔の音楽をよく知りませんが、外国人がこうして評価してくれるのは嬉しいですね。昔の誇りを伝えられます。映画の公開イベントでは、ダラッカーを数十年ぶりに再結成して演奏しました。クメールルージュ以降、全員で揃うとこはなくなってしまいましたが、青春に返ったような気がしましたね。

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