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カンボジアクロマーマガジン35号

美しき花のように。天女アプサラの物語

[取材・文] 矢羽野 晶子 [写真] 多賀 史文、岡 克哉 [制作] 安原 知佳(クロマーマガジン編集部)

アンコールワットの壁画に刻まれる「乳海攪拌」。霊薬アムリタを手に入れるため、神々とアスラが大海をかき混ぜた天地創造の物語。やがて海は乳海となり、生まれ出ずるは天女アプサラ。煌びやかな踊りで魅了する女神の舞は、やがて古典舞踊の花となり、国を代表する舞台芸術となった。「アプサラ」を鍵に紐解く、麗しきカンボジア古典舞踊の世界へ。

 

アンコールワットの女神像

アンコールワットの女神像

バイヨン寺院にあるアプサラの壁画

バイヨン寺院にあるアプサラの壁画

アンコールワット第一回廊の「乳海攪拌」。神々たちの頭上で舞い踊るアプサラたち

アンコールワット第一回廊の「乳海攪拌」。神々たちの頭上で舞い踊るアプサラたち

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神へ捧げる祝福の舞

カンボジアの古典舞踊は、9~15世紀に繁栄したアンコール朝を起源とすると言われている。古来カンボジアにおける舞踊とは、単なるパフォーマンスではなく、神への祝福であり、祖先を祀る神聖な儀式であった。アンコール時代、舞踊は神に捧げる奉納芸能であり、神、すなわち王や天界と下界を繋ぐ役割を持っていた。歴代の王たちは、自身の舞踊団を持ち、舞踊を天上界にいる祖先とコミュニケーションを取る媒体としても用いていた。また、記録に残ってはいないが、葬式や重要な王室行事、雨乞いの儀式でも舞われたと伝えられている。王朝最盛期に建造されたアンコールワットやアンコールトムでは、足を深く曲げて舞うアプサラの彫刻が残されており、踊り子が重要な役割を担っていたことが垣間見られる。

 タイに引き継がれた伝統芸能

12~13世紀に最盛期を迎えたアンコール朝であるが、アユタヤ(タイ)の度重なる攻撃により1432年滅亡。この時、踊り子や音楽楽士などを含む約9万人の芸術伝承者がタイへ連れ去られた。これにより、カンボジアでの伝統芸能は廃絶したが、アユタヤ宮廷にてアンコールの宮廷文化が温存、伝承されることとなった。
 時は経ち19世紀半ば。カンボジア近代の父と呼ばれるアンドゥオン王は、タイより踊り子を連れ戻し、カンボジア舞踊の再興を始めた。仏領になってからも古典舞踊は特別に保護され、1906年フランスのマルセイユで開かれた植民地博覧会では、74名の宮廷舞踊団がカンボジアより参加し好評を博した。

舞踊団が紹介された植民地博覧会のポスター

舞踊団が紹介された植民地博覧会のポスター

植民地博覧会の様子。アンコールワットのレプリカも

植民地博覧会の様子。アンコールワットのレプリカも

アプサラダンスの誕生

1945年、カンボジアはフランスから独立。宮廷舞踊団は王宮管轄となり、シハヌークの母コサマックの下、宮廷舞踊の再建が試みられた。コサマックはアンコールワットのレリーフを参考に、踊りの動きや衣装を見直して「新しい古典舞踊」を創り出した。「アプサラダンス」もこの時コサマックにより創出された演目だ。その後、彼女の孫で王立舞踊団のプリマドンナであったボパデヴィ王女が、アプサラダンスを国民的に有名にした。コサマックはタイ風であった衣装をクメール風に変えたり、それまで女性のみであった演者に一部男性を起用したりするなど様々な改革を進め、現代古典舞踊の礎を築いた。1950~60年代のシハヌーク統治下にあった時代は、カンボジアが最も平和で繁栄した時期であり、古典舞踊は王室保護の下、大事に育まれ花開いた。

 

内戦と復興、世界遺産登録へ

1970年、ロン・ノルのクーデターによりカンボジアは一変、内戦時代に突入する。75年にはクメール・ルージュがプノンペン入城し、ポル・ポト時代が始まった。ポル・ポト時代の3年半の間、実に9割とも言われる古典芸能従事者が殺され、カンボジアの伝統芸能は再び破壊された。終戦後、生き残った数名の指導者により復興の試みが始まり、81年には芸術学校が再編。2003年、カンボジアの宮廷古典舞踊はUNESCOの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」に登録された。

仏領時代の踊り子たち

仏領時代の踊り子たち

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