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カンボジアクロマーマガジン39号

冒険シリーズ
村をめぐる冒険:第3回
下川裕治(しもかわ・ゆうじ)

道ができ、電気が通じる。それはプノンペンから車で2時間ほどの村にとっては大変なことだった。家には電灯がつき、テレビが置かれるようになった。しかし村の生活はそこから先にはなかなか進まなかった。
 村の人たちの収入が急に増えたわけではなかったのだ。
 村を変えたのは工場だった。
 中国の援助というより、中国の資金と中国人の手で工業団地が完成したのだ。それと同時に、メコン川に架かる橋も完成した。以前は片道1ドルの船が頼りだったのだが、そこに立派な橋が完成したのだ。工業団地でつくられ製品を運ぶことが目的だった。
 村の若者の多くは、高校を卒業すると、プノンペンに出ていった。プノンペン近郊にある工場で働くことが多かった。週末になると、実家に帰ってくる生活である。
 ところが村のすぐ近くに工場団地が完成したのだ。そこには縫製を中心とした工場が建っていった。ヨーロッパや韓国の会社の工場だった。
 村の若者がすぐにその工場で働きはじめたわけではなかった。彼らにとって、プノンペンに出ることは夢でもあった。親元から離れることにも魅力を感じていたのかもしれない。
 はじめに働きはじめたのは、女の子だった。親にしてみたら、プノンペンに娘を出すことが心配だったのだろう。臆病な女の子にしたら、実家から通勤できる工業は安心だった。
 問題は給料だった。
 月給は100ドルという話だったが、それをはじめから信じる村人は少なかった。100ドルという額は、プノンペンの工場で働いた場合であって、田舎では、本当にその金額が払われるはずがない……。多くの村人がそう考えていた。
 しかし工場で働きはじめた高卒の女の子が、本当に100ドル紙幣を受け取って帰宅したとき、村の人たちの目つきが変わった。
 「本当に100ドルを払うんだ」
 村の人たちは急に浮き足だってきた。
 工場で働きはじめた女の子は、100ドルの給料を、そのまま親に渡した。彼女たちの発想のなかには、自分で稼いだ金を自分で使うという考えがない。給料はそっくり家に入れ、いままで通り、家で食事をし、親からわずかなおこずかいをもらう。そんな生活になんの不満も抱かなかった。
 親にしてみたら、実際に働いているわけだから、おこずかいの額を増やしただろう。それで女の子は幸せだったのだ。
 それまでの村の人たちの現金収入は300ドルから500ドルといったところだった。仕事にもよるだろうが、100ドル切る家もあった。そんな経済状態のなかで、高校を出た娘が、ポンと毎月、100ドルの給料をもらうようになる。生活が一気に変わっていくのだ。
 女の子たちの仕事は、ミシンを使い、衣類を縫っていくことだった。仕事は楽ではなかったが、重労働というわけでもない。
 工場で働く──。この噂が、その村だけでなく、周辺の村、そしてプノンペンにも届いていった。
 プノンペンの工場もはじめのうちは月給が100ドルというケースは多かったという。しかし親元を離れるわけだから、生活費がかかる。プノンペンから村に戻ってくる若者が少しずつ増えていった。(続く)


下川裕治(しもかわ・ゆうじ)

1954年生まれ。旅行作家。アジア、沖縄に関する著作が多い。近著に『世界最悪の鉄道旅行ユーラシア横断2万キロ』(新潮文庫)、『「生きずらい日本人」を捨てる』(光文社新書)。最新刊は『不思議列車がアジアを走る』(双葉文庫)
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