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カンボジアクロマーマガジン24号

1960年代のカンボジア建築-日本とカンボジア、2つのオリンピックスタジアムを巡って-

[文] 小出 陽子 (一級建築士)

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↑広島平和記念資料館

 

 ル・コルビュジエと日本の近代建築、そして丹下健三へ

日本でも、当時多くの建築家がル・コルビュジエの影響を受け、フランスの彼の事務所に数年間勤務した者もいた。 例えば、神奈川県立近代美術館(1951年)を設計した坂倉準三、神奈川県立音楽堂(1953年)を設計した前川國男、水道橋のアテネフランセ(1962年)を設計した吉阪隆正などである。 また、上野の国立西洋美術館(1959年)は、日本唯一のル・コルビュジエの建築であり、上記三弟子が協力して実現にあたった。 このように、日本でもこの時代、ル・コルビュジエの造形的、技術的、思想的側面が積極的に取り入れられ、日本建築の伝統や美との融合が図られながら、新たなアイデンティティをもつ建物が造られていた。
 弟子の一人、前川の事務所に勤務していたのが、後に日本を代表する建築家となった丹下健三である。 その丹下が世界的に知られるようになったのは広島平和記念資料館(1955年)で、コンクリートの塊を強調したピロティの柱や、日除けの格子が特徴的な建物である。 またこの建物は、原爆ドーム等と関連付けられて構成されているのだが、こうした、都市構造や環境条件を手掛かりとして一建築を構想してゆく姿勢はル・コルビュジエから得たもので、その後の国立代々木競技場へと展開されていく。2本の大柱の間に張り渡したワイヤーから屋根を吊って巨大空間を覆うというダイナミックな構造は、斬新で美しく、芸術的ともいえる形態によって、国家の威信をモニュメンタルな手法で強烈にアピールした名建築となった。 さらに、東京オリンピックの成功によって、日本は国際的に認知され、高度成長のピークへと向かって華々しく駆け上るとともに、設計者の丹下は世界各地で国家を象徴する都市計画や建物の設計を手掛けることになる。

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建築家ヴァン・モリヴァンとオリンピックスタジアム

 

ヴァン・モリヴァンは、プノンペンの大学で法律学を学んだ後、パリに留学した(1947~1956年)。 法律学ではなく建築学専攻に選ばれたことが運命の分かれ道となった。 近代建築運動の中心地フランスに留学したヴァン・モリヴァンであるが、西洋の合理主義的な理論をそのまま受容できず、当初はやや距離をおいていたという。 しかし、マルセイユのユニテを実際に見てから徐々に関心を持つようになり、かつてル・コルビュジエのもとで働いていた都市計画家や技術者から様々な影響を受けるようになった。
 帰国後は、フランスで学んだ近代建築の手法と、カンボジアの伝統的な建築やアンコール時代の建造物の特徴を融合させようと試行を重ねた。 高床式住居を尊重し、風が建物の中を吹き抜けるような建築、アンコール・ワットに見られる中庭や水盤を取り入れ、環境に融合した建築を目指した。 こうして、斬新な構造体が目をひくチャトモック劇場(1961年)や自然との融合が図られた上院議事堂(1966年)などが誕生した。
 当時は、シアヌーク国王による新しい国家建設の夢が建築や都市に託され、大規模な公共事業が相次いで計画された時代である。 そのような中、前人未到の大規模工事となるオリンピックスタジアム建設も指示され、1962年8月の工事入札後、1963年の暮れの東南アジア競技大会開催を目指しての建設が始まった。 ところが、参加国の政情問題で大会は中止となり、完成は1964年となったのである。
 ヴァン・モリヴァンは、ここでも、カンボジアの気候や自然環境を考慮した建築を実現している。 室内競技場では、巨大な1本の柱が支える大屋根の隙間を通気と採光に利用した。 屋根に降った雨水は柱の中を通り、建物の足元の水盤へと流れ込む。 コンクリートの塊で構成された巨大空間ではあるが、無数の木漏れ日が全体を覆っていて、心地よさを喚起する。 圧倒的な力強さとともに親近感にも包まれるという、両義的な空間体験を全身で感じる建物だ。
 さらに、座席数6万人の屋外競技場の建設では、まさにアンコール時代の貯水池や環濠工事に匹敵するような大土木工事がなされた。 敷地は湿地帯で、大型重機が完全に泥に沈み込んでしまったこともあった。 結局、牛車を用いたアンコール時代さながらの方法で対応し、工事が進められたという。
 また、オリンピックスタジアムは、室内・屋外・水泳競技場だけでなく、バサック川沿いに建設された水上競技場と選手村の宿舎群がセットになった都市的構成を重視した複合施設だったことにも注目したい。 丹下が日本で実現した、都市を視野に入れた建築の実践を、カンボジアでも実現していたのである。 このように、オリンピックスタジアムは単なる競技施設ではなく、まさに、カンボジア再生の象徴となる建物だったのである。 しかし、その時代も長く続かなかった。 プノンペン外語大学の建設を最後に、ポル・ポト時代が始まったのである。

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[A] オリンピックスタジアム内部

[B] 同スタジアム柱の足元

[C] 同スタジアム(1)とともに実現した選手村(2)と水上競技場施設(3)の配置

(出典『Building Cambodia: ’New Khmer Architecture’ 1953-1970』, Helen Grant Ross & Darryl Leon Collons, 2006,)

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チャトモック劇場

 

これからのカンボジアへ向けて

 ヴァン・モリヴァンは、象徴性や祝祭性を持つ記念碑的な近代建築を国家の名のもとに創出する役割を担ったという点で、日本の丹下健三と肩を並べる可能性をもった建築家だったといえる。 技術への挑戦、都市的スケールで構想された建築の実現、近代建築の最新理論を土台にしながら自国の伝統文化と風土を尊重する精神。1960年代、カンボジアにこのような建築家が存在し、近代化への意欲と情熱が宿っていたことはあまり知られていない。 いや、彼が「カンボジアの自然環境を十分に考慮し、過度なメンテナンスに頼ることのない建築を目指した」ことは、その後、設備過多に突き進み、合理化に邁進していった日本の、さらに先を見通した見識の持ち主だったことが伺える。

 東京オリンピック後、日本は経済的にも政治的にも世界の表舞台に躍り出た。 もし、ポル・ポト時代がなければ、カンボジアはどのように発展しただろうか?・・・今からでも遅くはない。 それどころか、自然環境への調和が重視される今だからこそ、当時目指していた都市や社会を振り返ることは、未来へ向かうカンボジアの、新しい時代を築き上げるヒントへと繋がるかもしれない。

※建物名は現在名で統一しています。

小出 陽子(こいで ようこ)
一級建築士。 2000年、UNESCO/JASA遺跡保存修復オフィス建設のためカンボジアに赴任。2005年シェムリアップにレストランCafé Moi Moiをオープンする。現在は、建築設計とレストラン経営の傍らJST(NGO)を運営し、農村地域の支援活動を行っている。

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素敵なカンボジアに出会う小旅行へ―The trip to encounters unknown cambodia