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カンボジアクロマーマガジン21号

遺跡彫像の盗難

[文] 三輪 悟 (上智大学 アジア人材養成研究センター)

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はじめに

 今日のアンコール遺跡群の姿は創建当初の姿ではない。石造建造物とはいえ、遺跡の屋根や天井が木造の場合も多かったが、これは完全に失われている。遺跡周囲の密林イメージも実際にはわからない。遺跡の外観は過去100年間の修復により変わっている場合も多い。遺跡内部についても、実はもっと多くの彫像や装飾があったはずである。独立した彫像は盗難に遭ったり、保護のために撤去されたものが多く、結果的に遺跡より姿を消して現在に至っている。本稿では過去約150年間における「盗難(もしくは紛失)」について記してみたい。時代背景や当時の様子がおぼろげながら見えてくる面白さに興味をそそられる。

 

フランス調査隊による美術品の持ち出し

 1863年フランスはカンボジアと保護条約を結んだ。1873年仏人ドラポルト率いる調査隊はカンボジアを訪れ、多数の美術品を本国へ持ち帰った。大プリア・カン(コンポン・スヴァイ)では、川を下りトンレサープ湖へ出てプノンペンまで運んだ。1907年までアンコールワットの一帯はタイ領であり、フランスとしては作業条件が悪かった。対称的に大プリア・カンではより自由な活動ができた。19世紀末から20世紀初頭フランスの調査隊は盛んにカンボジアを訪れ、クメールの美術品を遺跡から持ち出し、大量に本国へ持ち帰った。これらは調査の成果として位置づけられ、決して後ろめたいものではなかった。現在フランスのギメ美術館に収蔵・展示される100点を超えるクメール美術品はこの時代の成果物なのである。
 アンコール遺跡群の修復のあり方を定める端緒となったバンテアイスレイの修復は1930年代初頭に行われた。これは1923年アンドレ・マルロー(後のフランス文化大臣)による遺跡石材(いわゆる「東洋のモナリザ」)の盗難が発覚し逮捕された事件が契機となっている。

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美術品の運搬、出展:L.P.Briggs(1999)

近年の事例‐大プリア・カン(コンポン・スヴァイ)‐

 カンボジア国内の大規模な盗掘はポルポト時代の後、80年代より90年代初頭の和平前後までの混乱期に行われた場合が多かったようである。カンボジアにおける盗掘被害が最大規模で見られるのは、シェムリアップの東100kmに位置する大プリア・カン(コンポン・スヴァイ)である。ここの被害状況は特に酷く「負の遺産」として世界遺産登録する価値がある。中央伽藍の主要な彫刻は例外なく被害に遭い、見るべき彫刻はほぼ消滅している。先に挙げたフランス調査隊の標的になったことに次いで、悲運の遺跡である。

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盗まれかけた彫刻(2011)

世界遺産登録

 1991年11月シハヌーク国王(当時)はユネスコに対しアンコール遺跡救済を要請した。また布石としてカンボジアはこの年世界遺産条約に加盟した。その後1992年12月にアンコール遺跡群は世界遺産リストに掲載された。当時は危機遺産に指定されていたが、2004年に危機遺産指定を解除されている。また世界遺産登録を契機として、1993年に国際調整委員会(ICC)が生まれ、日本とフランスが共同議長を務め、今日まで国際会議が継続されていることは、広く一般には知られていない。

『アンコールでの盗難』

 1993年ICOM(国際博物館会議)が発行した冊子で、1997年に改定版がでている。アンコール保存事務所より盗まれた盗品100点が写真付きで掲載されている。冊子の発行を契機に外国で発見された彫刻が多数あった。盗品の国際市場に圧力をかけると同時に、カンボジア国内での更なる盗難を抑止する効果があった。こういった冊子を製作する素材となったのは、収蔵品のしっかりとした管理記録・写真記録媒体があったからである。これらはフランス人の功績によるところが大きい。

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『アンコールでの盗難』(表紙)

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